はじめに。
右往左往してきた、器用貧乏な人生。
シンガーソングライターとしてCDデビューもし、劇団で役者をし、一時期はレギュラー番組数本を抱える所までに至った筆者。
しかし、今は、しがないサラリーマン生活。
今日に至るまで、特に「劇団員」としての生活は、本当に刺激的で、輝いていて・・・、
そして且つ、貧しくて、みじめで、情けなくもあった。
これから、役者・俳優を目指す人、劇団での活動を考えている人、または現在活動中の人や筆者の様に過去に活動していた人etc・・・。
色んな人に、その楽しくも苦しかった、激動の物語を共有し、ここに綴りたいと思う。
その世界では大成功した劇団、あの「劇団☆新感線」ですら、
旗揚げから19年間もギャラ無しで活動していたと言う、その壮絶なる演劇の世界での筆者の体験談(※参考記事⇒「演劇プロデューサーという仕事」著・細川展裕 レビュー!)。
そんな大変な世界でありながら、一度経験したら、なかなか抜け出せない魅力。
それは最近、ホリエモンこと堀江貴文さんが、実際、毎年舞台を演じ、その魅力を語るほど、ステキなものでもある。
夢と希望、現実と挫折・・・。
単に「読み物」として楽しんで頂いてもけっこうだし、このチッポケながら壮絶な経験が、皆さんの人生の、何かヒントになればと、願ってやみません。
その①【旗揚げ】のスタートです。
※本記事に登場する人物名、劇団名は仮名とさせて頂きます。
旗揚げ。
大学のキャンパスで、僕らは出会って「しまった」。
マンモス大学の、期待されない人達。
芸術学部・演劇学科に入学して、大学生活を謳歌していた、20歳の頃でした。
私たちは劇団を「旗揚げ」しました。
劇団「パラダイス座」。
劇団を「旗揚げ」と言っても、別に適当に仲間が集まって自己申告しているだけです。
「僕たち、劇団を旗揚げしましたー!」って。
売れている劇団は、「株式会社」化したりしますが、普通は、ただただ集まって自己申告しているだけです。
演劇学科にたまたま集まった同級生メンバーで、本を書き演出をする友人、笠木が居たので、そこに集まる形で、私も「役者」として参加。
旗揚げ公演は、大阪の100人も入らない劇場で行い、お客の評判も上々。
当たり前です。
見に来ているのは、大学の仲間や後輩先輩、知り合いや身内ばかりだからです。
小劇場界の劇団が打てる公演のキャパなんて、たかが知れていますから、だいたいこんなもんです。
しかしながら、当時の自分たちは、もちろんそんなことも良く解らないまま、「行けるんじゃないか?」と思っていました。
完全に、若気の至りです。
就職か?劇団か?
4回生にもなると、
就職か?それともこのまま、お芝居の道に行くのか?
そんな不安がよぎります。
実際、演劇科を卒業した先輩方を見ても、びっくりするほど、冴えません。
40歳手前で、まだ日雇いのバイトなんかをしながら、自分たちお手製の舞台に立っています。
失礼にも、
「あんなには風には、成りたくない」
「あんな未来が、幸せとは思わない」
そう思っていました。
その後、自分がそう変わらない状態になるとも知らずに・・・。
あの頃の先輩たちは、今どうしているのでしょうか・・・。
いや、それこそ、後輩たちに私自身がどうしているのかと思われているに違いありませんね。
「僕たちは、違う。何とかなるんじゃないか?」
そんな若いからこその勘違いと、
「長引く平成不況」と、「一度しかない人生、チャレンジするのに何が悪い!」と言う思いを胸に、就職と言う選択肢を排除し、
「売れなかったらどうするのか?」「親の面倒をどうやって見ていくのか?」等と言う現実はドッチラケで、
「売れる前提オンリー」と言うとんでもない発想の下、僕らは旗揚げ公演をし、その後、卒業しても続けていくことにしました。
そもそも、大学で演劇を学ぼうと言う、自分も含め、それなりに自信のあるやつの集まりだったし、ちょっとイカれた連中なので、今思えば無理もありません。
だいたい、就職活動して、内定を貰えるほどの大学生活だったのか?って話です。
しかしながら、劇団「パラダイス座」は、無謀にも、大海原へと船出するのでした。
これが人生のとんでもない分岐点だった。
今思えば、このキャンパスの出会いが、自分の人生を大きく変えました。
何かしら、芸術の世界で成功したいと思っていたに違いない私ですが、
これが、この先「CDデビュー」や「テレビ番組レギュラー出演」などの、夢の様な時間を与えてくれた事に加え、
「借金地獄」、「裏切り」、「全てを失って東京で一人ぼっちの生活」、「難聴と言う障害」に至るいまで、私の人生に大いなる壁を与える事になろうとは・・・。
当時は知る由もありません・・・。
20第前半の出会いと言うものは、その後の人生の円熟期にとんでもない影響を与えます。
いまだに、笠木や劇団「パラダイス座」の面々との出会いが無ければ、いったいどんな人生が待っていたのだろうかと、感慨深くなります。
「若さ」と言う、最高の劇薬が切れる時・・・。
迷いは無かった。売れる事しか考えて無かった。
旗揚げ後、私たちは果敢に、大阪で公演を重ねていきます。
「劇団やってます!」と言っても世間から見れば、立派なニートであり、浪人扱いです。
私は元々裕福な家庭の生まれではないため、学生生活も奨学金を借りながら、家賃2万円の部屋に住んでました。
余談ですが、風呂はもちろんの事、この暑苦しい現代日本において、まさかのエアコンが無かった部屋だので、地獄でした・・・。
気が付けば、何も解決しないのに、冷蔵庫に頭を突っ込んでたりしました(苦笑)。
週5でバイトに入り、公演前に休みを取って稽古し、本番。
最初のうちは、仕込日を入れても、5日程度です。
それを1年に、2回、出来たらいい所。
1年356日のうち、たった10日間・・・。
そのたった10日間程の「輝ける時間」のためだけに、
ずっとやりたくもないアルバイト生活をするわけですから、ある意味、ストイック過ぎます。
それでも当時は、若かったし、何よりも
「10年後は売れまくって、ドラマに出まくっている!」
と言う自分しか想像していなかったので、耐えれたのかもしれません。
ある意味、夢を追うには、真っ当な思考と言えます。
しかしそれは叶えられたらこそ、真っ当になるんですがね・・・。
バイトバイトで疲れ果てた上に、1円にもならない稽古でダンスを踊ったりも出来たのは、若さゆえの体力もありました。
何よりも、たった10数日間のその舞台の本番が楽しかったんです。
自分が発した言葉で、お客さんが揺れるあの衝動は、一度経験したら、なかなか辞められないもんです。
家賃¥15,000、風呂無し、便所共同、日当たりゼロ。
自分自身はガムシャラでした。
卒業し、奨学金を返していかなければならない身分のくせに、就職もせずに劇団員として活動していかなければならなかった私は、更に家賃を下げます。
22歳、春。
家賃¥15,000、風呂無し、便所共同と言うあり得ない悲惨な物件。
日当たりはゼロ。
今が、昼か夜かも解らない勢いです。
大家さんは猫好きで、アパート内放し飼いという、珍妙な悪臭エピソード付き。
更に、バイトがあるからと、稽古を休みたくない自分は、深夜にアルバイトをし、一睡もせずに稽古や舞台セットの準備に励みました。
しかし、歳を重ねていくにつれて、いろいろ歪が出て来ます。
25歳くらいまでは、両親も
「まぁ、まだ若いし・・・、30歳まで自分の人生を自分でなんとかするだろう」と思ってくれていたのでしょう。
何よりも私自身も「若さ」と言う劇薬のおかげで、何とかなるだろうと、突っ走ってこれました。
しかし、25歳を越えるくらいから、30歳と言う未開の「おっさん」と言うゾーンを目の前にして、どんどん焦りが見えてくるのです。
え・・・、このままだと、30歳と言う「おっさん」で、「フリーターのままなの?・・・」と。
バイト先や知人に「夢追ってます!」って言えない年齢が恐怖として迫って来るのです。
増えていく葛藤、去っていく劇団員。
時を重ねると、パラダイス座の劇団員たちの温度差も気になって来ます。
やはり家庭の貧富の差はあり、卒業しても仕送りでバイトせずに劇団活動できる者も入れば、
あまり稽古と言うものに信念が無く、「バイトなんで」っと普通に休む者も出て来ます。
大前提として、
「いや、別に私は、役者として食って行く気が無いし・・・。」
と言う者も現れてきます。
そんな劇団員が、バイトで休んでいる間、深夜働き寝ずに稽古に出ている自分が代役をし、ダメ出しをめもり、伝えてあげなければなりません。
また、こう言う人物は、往々にして、裏方の仕事をしません。
小劇団なんて、売れるまでは、自ら公演のチラシを街に配りに行き、舞台美術を自らカナヅチで叩いて作り、
劇場に入れば、照明を自分たちの手で仕込まなければ、予算は回りません。
しかし、連中は、
「いや、自分バイトなんで・・・」、「別に役者で食っていくつもりないんで・・・」
と、そういう裏方の仕事から往々にして逃げます。
主宰、笠木との葛藤の始まり。
何よりも主催で作家の笠木が、とんでもないだらしない人間でした。
作家と言うのは、往々にして、だらしないもんです。
芝居と言うのは、台本が無ければ成立しません。
演出家というのは、その舞台の設計図である台本を基に、役者が舞台に立った時の答えを出せる唯一の人間です。
作・演出を兼ね備えていた笠木は、
「まだ台本が書けてないから・・・」、
裏方の仕事をさぼるようになりました。
役者は待つしかないのです。
そして、作家が台本に集中して貰うために、そんな裏方仕事やドブ板営業も彼の分もしなくてはなりません。
もちろん、そんな彼はバイトもロクにせずに、団費は滞納しっぱなしです。
挙句の果てに、
「お金がなく、飯が食えてないので、腹が減って、演出が出来ない」
とまで言い出します。
ビックリです。
そんな幼稚園児みたいなことを言う大人が存在するのかと耳を疑いたいですが、居るんです(苦笑)。
しかし、劇団と言うのは、作・演出家が機能しないと、何も前に進みません。
私は彼の団費を肩代わりし、彼に飯をおごり、怒りを堪えながら、芝居に打ち込んでいたのです・・・。
歪の果て。
そんな笠木と、この後15年も、付き合うことになるのですが、今思えば、何故もっと早く離れなかったのだろうとも思います。
笠木をはじめ、その他劇団員達の温度差から来るそんな歪が、もちろん退団する劇団員を生みます。
それでも、まだこの時私は、「若さ」と言う劇薬が切れていなかったのだろうと思います。
笠木の台本、演出がもちろん面白いと思っていたし、当時は彼の人間性よりも、その作・演出家としての期待の方が上回っていました。
「今、この劇団を辞めるなんて、もったいない!後悔させてやる!」
そんな風にすら、思っていたと思います。
しかし、この後、残された劇団員には、エスカレートする笠木のだらしなさ故の、耐えがたい現実と、劇団という自分たちが勝手に言い出しただけの脆弱な集団性に苛まれるのです・・・。
(その②へ続く)
その②はコチラ!👇
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