※本記事に登場する人物名、団体名等は仮名とさせて頂きます。
過去記事をまだ読まれていない方は、ぜひそちらをお読みになってから当記事をお読みください!👇
「その①【旗揚げ】」、「その②【大阪・放浪記】」、「その③【もがく大阪、一文無しの下北沢】」、「その④【希望と、迫りくる影】」
絶望からの決意。
涙したミナミの喫茶店。
クルミさんと離れた私たち、劇団「パラダイス座」。
残されたのは、1人当たり100万近くの借金だけ。
誰もが、頭をよぎったのは・・・、
「解散」。
この、二文字でした。
フリーターでこれだけの借金を返していくのは、並大抵の事ではありません。
仮にこれから頑張ってこれからも続け、公演していくとしても、先ず借金を返してからになります。
一年後か、二年後か・・・。
それまでは、ただただ、アルバイトをする生活です。
そこからまた、再開する公演の費用を捻出するとなると・・・。
少なくとも空白の三年間は必要・・・。
忘れもしません、私たちは、大阪ミナミの喫茶店に集まり、話し合いをしましたが、涙しか出て来ませんでした。
解散の文字しか、頭をよぎりませんでした。
決意。
遂に30歳を迎えていた、私たち。
しかし、一通り涙した後、やはり悔しさが込み上げてきたのです。
元々、上京して、東京で勝負しようとしてきた、私たち劇団「パラダイス座」。
その前に現れたクルミさんという人物。
クルミさんと一緒にやっていく条件は、「大阪に留まる事」だったので、そこで舵を切り返し、大阪で頑張った挙句の結果でした。
全てをクルミさんのせいにするつもりはありませんが、やはり他人の影響が高じた結果としか思えなかったのと、
「まだ東京で勝負していない」という思いが、ふつふつと湧いてきたのです。
まして、男女関係を持ち込まれ、劇団内を無茶苦茶にされた感は否めませんでしたし・・・。
「こんな悔しい思いのまま、このまま終わって良いのだろうか。」
誰からともなく、そんな声が挙がって来たと思います。
私たちの中に、悔しさからくる、負けてなるものか、という思いが大きくなり、無謀にも、
「もう一度、クルミさん無しで。クルミさんに気を遣うことなく、東京で勝負しよう」という結論に至りました。
この時ばかりは、普段、クズ人間でだらしない笠木ですら、一緒の気持ちになった感があり、
やはり作品の面白さはまだ信じていたし、共に戦って行きたいという決意が一致したのを覚えています。
金策。
とは言え、莫大な借金を抱えている私たちが、東京で再スタートをするには、とにかくお金が無さ過ぎました。
上京して活動していくための自分の生活費はもちろんの事、
上京後の公演費、そして少しづつでも、支払いを待ってくれているスタッフさん等に返していかなくてもなりません。
圧倒的にお金が有りませんでした。
それでもやると決めたからには、どうにかするしかありません。
富永と言う友人が居ました。
彼は、大学の演劇科の同級生でもあり、元劇団の旗揚げメンバー。
卒業後、早々に劇団を辞め、そこから自分で事業を立ち上げ、成功していました。
30歳を迎える頃になると、早く劇団を去った人物程、一般社会で成功している感はありました。
そりゃ、まともにシャバで働く時間が長い方が、劇団以外で頑張って来た時間が長いのですから、当たり前なのですが・・・、皮肉なもんです。
富永は、無利子、無担保で渡したちに、数百万円、融資をしてくれたのです。
富永は劇団をやめ、一度サラリーマン生活を送った後に、
東京に渡り独立して成功したのですが、その間もずっと、劇団の公演には足を運んでくれてました。
「プロ意識の無い、仲良し集団」という感が否めず、それに嫌気を刺して劇団を去ったものの、
その後、東京公演で見る、舞台上の私たちは、とても「幸せそう」に見えたそうです。
ある意味、目の前の利益など度外視して、思いっきり舞台で表現する私たちに、
「俺も頑張らなきゃ」と元気を貰っていた、とまで言ってくれていました。
実際、舞台というのはだから魅力的で・・・、演じる方ももちろん燃焼できるのですが、時にお客さんのアンケートで、
「明日からも頑張ろうと思いました!」
「学校に行って無かったけど、もう一度頑張って行こうと思いました!」と、
自分たちでもビックリするぐらい、他人の人生に影響を与えることが有るようです。
これだから、やはり舞台、芝居、演劇は、魅力的なのです。
実際、皆さんも、今まで芝居に限らず、音楽やその他芸術に人生を支えられたことも多いでしょう。
劇団で芝居をすると言う事は、誰の制限もなく、勝手にその世界を作り上げてしまえれる事に、その魅力があります。
事実、舞台に立っている時間は、私たちもとても楽しかったし、幸せでした。
たとえ、私生活がボロボロでも・・・。
富永の支援により、少しは金策のメドが立った私たちですが、それでもまだ、お金は足りませんでした。
次に私たちが頼ったのは、元々はクルミさんの繋がりで出会った、業界一のプロデューサーで、予てからアドバイスをくれていた、島谷さんでした。
まさかの、グルメツアー。
島谷さんを頼って。
予てから、
「勝負するなら、早く東京に来て勝負しなさい」
と、アドバイスをくれていた島谷さん(※参考記事⇒「④【希望と、迫りくる影】」)。
だったら、東京でもう一度頑張ろうとしている、私たち劇団「パラダイス座」を支援してくれるのではないか・・・。
そう考えました。
とにかく、一度、東京に出向き、一度お会いして、直接お願いする必要がある。
そう考えた私たちは、島谷さんにアポをとり、ある日朝一でレンタカーを借り、大阪の梅田、ヨドバシカメラ前に集まり、東京へむけて車を走らせたのです。
大物プロデューサーに借金をお願いするための、一日限りの上京物語です。
なけなしのお金を集め、高速料金を払いながら、レンタカーを走らせ、交代で運転しながら一路、東京を目指しました。
まさかのグルメツアーに・・・。
静岡辺りのサービスエリアで、一度休憩を取っている時です。
島谷さんから電話がありました。
「今日は、都合が悪くなった逢えないかもしれない。」
・・・。
私たちは、途方にくれました。
どうしたものか・・・。
このまま引き返そうか・・・。
どうしようも無く、静岡から大阪に引き返そうかと思ってた矢先、再び島谷さんから電話が来ました。
「会えるかもしれないが、かなり夜遅くなるかもしれない。」
私たちは、向かうしかありませんでした。
ここまで来た以上は、可能性を信じて、東京に行くしかありません。
首都高を抜け、まだ見慣れぬ高層ビル群の東京に辿り着いたのは、確か夕方ごろ。
島谷さんからの電話は、まだ有りません。
レンタカー一台で、金の無心に来た私たちは、東京に着いた物の、島谷さんに会えるまで、やる事がありません。
なぜそうなったのかも、あまり覚えて無いですが、せっかく東京に来たのだからと、「月島にもんじゃ焼きを食べに行こう」となりましたw。
「これが月島名物、もんじゃ焼きか・・・。やっぱりお好み焼きの方が満足感あるな。」
そんな話をしたのを覚えています。
登り立つもんじゃ越しの湯気の奥に見えるお互いのメンバーの顔みて、目が合った時に、思わず笑ってしまったのを覚えています。
「俺たちは、人生でこんな危機的な状況になっているのに、お金を借りに東京に来ているのに、何、東京名物楽しんでんだw」
と。
まさかのグルメツアーです。
不安で、情けなく、それでも気心知れた劇団員と食べた、初めての「月島のもんじゃ焼き」の味は、今も忘れることが出来ません。
新宿。
そんな「まさかのグルメツアー」をしながら、ようやく島谷さんに会えたのは、23時頃だったと思います。
新宿の居酒屋でした。
最初はたわいもない話から始まりましたが、島谷にさんの方から、
「で、わざわざ、今日、東京まで全員で何しに来たんだ?」と。
少しの沈黙の後、笠木が、口火を切りました。
「今日は、・・・島谷尾さんにお金を借りに来ました。」
この時だけは、笠木が劇団主宰として、よく言ってくれたと思う反面、
いつでも彼は「お金を借りる時だけ饒舌になるな」と、反芻したのを覚えています。
そこからは、各々、現状を島谷さんに伝えました。
島谷さんは言いました。
「お前らは、そこまでして舞台に立ちたいのか?諦めるという選択肢がないのか・・・。ここで、俺にまた金を借りて無理して芝居して、その先に未来なんてあるのか?」
誰も言葉を返せなかったと思います。
「まぁ、とにかく、1人、月1万円でも良いから、来月から絶対に返済しなさい。人としてそれが最低限の礼儀だ。それが出来なければ、俺はお前たちと縁を切る。ま、明日には、君たちの劇団の口座に、お金は振り込まれている事でしょう。」
結果、この様にして、島谷さんは私たちに融資してくれたのです。
話が終わった時は、もうとっくに日付が変わっていました。
新宿南口のネットカフェで僕らは一夜を過ごし、次の朝、大阪にまたレンタカーで帰りました。
疲れと、安堵感と、また新たに謝金までして、売れるかもどうかも解らない「劇団運営」という大海原に船出してしまったと言う恐怖心とで・・・。
帰りの車の中は、メンバーはほとんど、言葉を発さなかったのを覚えています。
それは、まるで、映画「スタンドバイ三ー」の、死体と出会った帰りの少年たちの様でもありました。
(その⑥へ続く)
※その⑥はコチラ👇!
「芝居・役者・舞台の魅力と苦悩~僕の演劇人生、劇団日記~その⑥【全てを失った上京物語】」
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