※本記事に登場する人物名、団体名等は仮名とさせて頂きます。
「その①」、「その②」、「その③」をまだ読まれていない方は、ぜひそちらをお読みになってから当記事をお読みください!
「その①【旗揚げ】」、「その②【大阪・放浪記】」、「その③【もがく大阪、一文無しの下北沢】」
だから、芝居は辞められない。
運命の出会い。
劇団や役者の魅力のうちの一つとして、とても内容の濃い、ステキな出会いがある事は既に述べたと通りです。
何やかんやお芝居に関わっている人は破天荒に見えて、自分がその世界に足を踏み入れている事を含め、
一般人とは違う「特別な世界」、「特別な出会い」と思ってしまうものです。
(後から気づくのですが、別に演劇界に限らず、普通に会社員していても、魅力的な人もヤバい人はどこにでも一定数居るのですが・・・苦笑)
関西のメディアにも取り上げられる様になり、色んな繋がりが増えてきた、我ら劇団「パラダイス座」。
ある日、知り合った某テレビ局のディレクターから、私の携帯に電話がかかってきます。
「ローカル局だけど、レギュラーとして番組に出演して見ない?」
と。
私は、狂喜乱舞しました。
大阪で出会ったディレクターが、私の地元にたまたま転勤になり、そこで新しいコーナーを作る予定だと。
そのメインMCに自分が抜擢されたのです。
これだから、辞められません。
役者と言うのは、遅咲きの、歳を重ねてから売れる人も多数います。
そんな人はごく一部ですが、それに誰もが夢見て続けてしますんです。
「まだ、いつか、何か起こるんじゃないか・・・」と。
極々一部の人しか成しえれないのに、高橋克実さんや滝藤賢一さんの様に成れるんじゃないかと・・・。
結論から申しますと、私はこの後、数年に渡り、レギュラーMCを努めさせて頂き、
時には全国ネットやラジオ、また地元の他局にも出演させて頂き、
とても貴重な体験と、いくつもの繋がりと、夢を叶えさせて頂きました。
結果、重なる劇団の公演費もあり、まだ、アルバイトは辞めれませんでしたが・・・。
なので、こっからの数年間は、私の人生で最も「燃焼」できていた時期かもしれません。
夜勤で寝ずにアルバイトをし、朝、2時間かけて地元に戻り、
そのまま一睡もせずに、収録や時には生放送もこなし、また大阪に返って夕方から劇団の稽古・・・。
そして、稽古終わりで、また夜勤のアルバイト・・・と。
「いつ寝るんだ?」という時も多かったですが、人生、突っ走ってた感はありました。
音楽活動もしていた自分は、インディーズで出したCDが、自身のコーナーのオープニングに使ってくれたり、
また、別のコーナーの作曲なども依頼してくれ、「作曲家」としての未来も、このディレクターさんには切り開いて頂いたのです。
たまたま自分の地元に、担当ディレクターが転勤になった・・・、と考えると、本当に奇跡的な偶然です。
もちろん大阪で、そうやって後々声をかけて貰えるようになるまで、笠木のマネージャーみたいな事をしながらでも、
大切に人と人との繋がりを保ってきたと自負している自分を、褒めたい瞬間でもありました。
良くも悪くもですが・・・、これがもちろん私を「この世界」を諦めることを先延ばしにしてしまったのは、言うまでもありません。
親、親戚の目。
私は、劇団を立ち上げてからの数年間は、「帰省」が本当におっくうでした。
親や親戚にあってしまうと、
「いつまでそんな生活してんだ」、
「いつになったら食べていけるんだ」、
「そろそろまともな職に就きなさい」、
と、もちろんこんな事を、言われっぱなしなのです。
当時は、自分なりに必死で生きていたので、それがめちゃくちゃ、私自身に苛立ちを感じさせ、
言い合いになる事もしばしばで、家族間の関係もギクシャクしてきていました。
必死な一方で、30歳を手前にして、自分でも「食えていない」現状に苛立っていたのかもしれません。
しかし、地元のテレビレギュラーが始まってからと言うもの、状況は変わります。
なんたって、自分の息子が、毎週、テレビに出ているのですから、
戦後の高度経済成長を突っ走って来た親、親戚にとって、
どれだけ舞台で活躍しようが、ネットで取り上げられようが、やはり、
地上波テレビに出ているというのは、かなりのインパクトがあった様です。
世間から見れば「ドラ息子」の自分だったのが、
実家の年賀状に「息子さんの活躍凄いですね!」と一言書かれ始めるもんですから、親も喜んでくれました。
何よりも反対はしつつも心配してくれていた父が、
毎週出演の番組を当時の「VHS」に録画し、
更には、近所にオリジナルのチラシを作って宣伝してくれたりしたのです。
これは本当に、正直泣けてきましたし、嬉しかったし、
「劇団頑張って来て良かったな・・・」と思いました。
やっぱり、ローカルとは言え、毎週のレギュラーを持ち、地上波のテレビに出れるなんて、そんなに経験できる事ではありません。
人生とは、本当に出会いの積み重ねです。
ちっぽけな自分の頑張りが、たった一人の人物との出会いを生み、そして己の人生を時に急スピードで夢へと導いてくれる・・・。
これだから人生は面白いんです。
そんな事もあり、私は、テレビ番組のMCを通じ、益々、「表現者」への道にどっぷり浸かって行くのでした。
この先に待っている、困難も知らずに・・・。
分岐点。
クルミさんと言う、女性との出会い。
さて、30歳手前にして、色々なつながりが、本当に増えだした、劇団「パラダイス座」。
ここで、もう一人、これからの人生に大きな影響を与える人物との出会いがありました。
クルミさん(女性)です。
私たちより一回り年上の彼女は、元々は私たちを取材してくれていたライターで、何かと目をかけてくれていた存在でした。
もちろん、業界のつながりも多い人で、数少ない味方の1人でした。
関西ではそれなりに注目はされてきつつあるものの、
誰一人として食ってはイケておらず、注目され動員も増えれば増える程、笠木の演出のこだわりも増し、
スタッフも「ほとんどノーギャラで知り合いに格安で頼む」なんてことも出来なくなってきていました。
舞台美術は豪華になっていき、映像や照明音響も、プロに依頼し始めたので、変わらず公演は赤字続き、制作費は膨らむばかりでした。
私たちは、限界をどこかで感じており、いつしか「上京」を視野に入れ始めました。
売れない理由を「土地」や「環境」のせいにはしたくありません。
しかし、こと「小劇場界で、役者もみんな食って行く」という事に関しては、当時「東京で売れなければどうしようもない」というのは、答えが出てたと思います。
クルミさんの繋がりで、業界一のプロデューサーである、島谷さんと言う男性も紹介して頂きました。
島谷さんからは、「上京はただの引っ越しだ。今まで大阪に居て売れ続けた劇団は無いんだ。歴史が物語っている事実。勝負するなら東京に来なさい。」
というアドバイスも、常々貰っていたのです。
劇団「パラダイス座」、全員で上京を模索し始めた時に、それに「待った」をかけた人物が居ました。
それは、他でもない、クルミさんでした。
上京か、在阪か。
クルミさんは、「大阪に残るのであれば、メンバーのマネジメント、及び、公演のプロデュースをしたい」と、申し出てくれたのです。
私たちは悩みました。
限界を感じていた、大阪での活動。
しかし、クルミさんのサポートがあれば、何とかなるんじゃないか?
いやでも、せっかく上京する気運が高まってきているのに、
ここで逃したら、30歳を越えてからでは、もう一生、上京出来なくなるんじゃ・・・。
揺れに揺れた結果、私たちは、クルミさんと大阪に留まり、活動することにしました。
クルミさんのサポートが始まってからは、やはり、人脈の繋がりのスピードが違いました。
劇団に出てくれるゲストも豪華になり、見に来て頂けるお客さんに著名人も増えました。
私たちは、「これは何とかなるんではないか?」という思いも出始め、益々、突っ走ります。
その後に待っている、悲劇も知らずに・・・。
歪始めた関係。
勢いを増したことに違いない私たち劇団「パラダイス座」。
しかし少しづつ、歪が出て来ます。
クルミさんの、言動や行動が、次第にトゲを持ち始めました。
「普通はもっとお礼をいうでしょう?」、「だからあなたたちはダメなんだ」と。
社会人を経験せずに劇団だけをしてきた私たちには、もちろん「世間知らず」として粗相することも多かったでしょう。
にしても、クルミさんからの言葉がどことなく、愛を感じられなくなってきていました。
そしてもう一つ。
劇団メンバーの売り込み方に差を感じまじめ増した。
私は、もちろん始まっていたテレビレギュラーのギャラの一部を、マネジメント料としてクルミさんに納めていました。
しかしながら、私の仕事には一切、ノータッチで、局に挨拶にも来ない。
私に関しては変わらず、自分の携帯のみでスケジューリングや事前打ち合わせをしていました。
ただ、他の劇団メンバーである、勇気(ゆうき)と正治(まさはる)だけには、やけに入れ込んでマネジメントしているのです。
「あなたは自分で出来る子だから」と、説得され、
「まぁ、そんなものか・・・。クルミさんにはクルミさんの考え方、売り方の順番があるのだろう」と、
私も最初は信じていましたが、どうも腑に落ちない状況が続きます。
劇団の雑作業も、どうも私にはさせておいて、勇気と正治にはさせない様にしているようにも見えました。
実際、クルミさんのおかげで、勇気や正治には、ちょくちょく仕事も入り始めてました。
そして、その頃になると、クルミさんの言動や行動がどんどん不可思議になっていくのでした。
衝撃の事実。
クルミさんは、私たち劇団「パラダイス座」のことをSNSで発する様になりました。
もちろん宣伝をしてくれてる時もありましたが、この頃になると、
「もう嫌だ」、「わかって無い」、「やってられない」と、
私たちがその投稿を見れるのを知ってか知らずか、批判するような内容が増えて行きました。
もちろん私たちの世間知らず、不甲斐なさは、相変わらずあったと思います。
しかし、それは直接言ってくれればいいだけで、なぜSNSだけに投稿するのか。
そんな投稿を見る度に、私たちは気が滅入りました。
時に、
「誕生日を誰にも祝って貰えなかった。もう生きていても意味がない。」などど、投稿はエスカレートしていきます。
お世話になっている人ですから、それは私たちの気遣いも足りなかったこともあったでしょう。
しかしなぜ、それをSNSでわざわざ言うのか。
もちろん、そんな投稿がある度に私たちはクルミさんに詫び、御機嫌を取るようになっていました。
それでも、
「寝れずに、睡眠薬漬けだ」
などと、投稿内容が激化していきました。
そんな、ある日のことです。
その日の投稿には・・・、
「フラれた。もう生きていても意味が無い。」
と投稿があり、劇団メンバーは今までで一番パニックになりました。
メンバーを緊急招集し、色々と事情を聴いていると、衝撃の事実が発覚しました。
勇気が言います。
「あれは、俺との事だ。昨日、クルミさんが部屋まで来て、告白されて・・・。断ったんだよ、俺・・・」
皆は、絶句しました。
その後、クルミさんは、私以上に、勇気のマネジメントをしなくなり、冷たくなって行きました。
しばらくして、勇気は、劇団「パダライス座」を去りました・・・。
クルミさんはその後、益々SNSで私たち劇団員ことを批判するようになりました。
その後、クルミさんは、正治の事も男として好きになってしまったと告白し、正治がフル事になります・・・。
結果、クルミさんは劇団を去ると言い出したのです・・・。
クルミさんとの時間。
私たちは、クルミさんのお陰で、沢山の繋がりと、夢を与えてくれたのは事実でした。
しかしながら、こうなってしまった以上、
「女として、劇団メンバーの男に近づくためだった」と思わざるを得ないのも事実です。
いや、男と女はどうしても惹かれあってしまう時は惹かれあってしまうものです。
それは解ります。
しかしながら、それと仕事・・・劇団のマネジメントとは、きっちり線を引いて欲しかった。
私は、さすがにその状況だったので、自分のテレビレギュラーで納めた分のギャラを、クルミさんに返して欲しいと申し出ました。
すると、クルミさんは、はっきりと私のマネジメントをしてなかった事を認め、あっさりと納めて来た分のギャラを返してきました。
これはこれで、改めて私をマネジメントする気など、最初から無かったと言われている様で、とてもつらい気持ちになりました。
沢山の豪華なゲストと、自分たちでは絶対ブッキングできない様な大劇場での公演。
クルミさんのお陰で、経験できたことは多かったです。
それは今でも感謝しています・・・。
そして、クルミさんが去った後、劇団に、とんでもない事実が発覚するのです・・・。
そんな、貴重な体験にかかる費用は、もちろんどっかから湧いていたのではなく、
ただただ、莫大な借金をして夢を見させてくれていただけだったのです。
クルミさんが去った後、後々、色々、清算作業していると・・・。
クルミさんは、私たちが知らないところで、ゲストさんに必要以上の豪華な宿を取り、必要以上の待遇にし、お金を使い・・・、
結果、¥10,000,000以上の公演費に膨れ上がっていたことに、そして、その莫大な借金を私たちが返済していかなけれなならないことに、絶望するのでした・・・。
(その⑤へ続く)
※その⑤はコチラ!
「芝居・役者・舞台の魅力と苦悩~僕の演劇人生、劇団日記~その⑤【借金と東京】」
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